<クンバク(Kumbhaka)という“間”との出会い>

<クンバク(Kumbhaka)という“間”との出会い>

ヨガの練習が少しずつ日常に根づき、

プラーナヤーマ(呼吸法)に親しんでいくと、


多くの人が自然と出会う言葉があります。

それが、「クンバク(Kumbhaka)」“息の保持”という意味です。

吸ったあと、あるいは吐いたあとに訪れる、静かな“間(ま)”。

その瞬間に立ち止まり、ただ“とどまる”。


クンバクとは、まさにそんな呼吸の中の余白を感じる時間です。

最初にこの「息を止める」という言葉に触れると、


「難しそう」「特別なことをするのかな?」と感じるかもしれません。


けれど実際のクンバクは、

“止めること”をがんばる技法ではなく、

“止まることが自然に起こる”という体験なのだと、私は感じています。

はじめてクンバク呼吸法の入っているレッスンを担当し始めた頃の

当時の私は正直なところ、“自分の実践”が追いついておらず、


クンバクという言葉だけが先に浮いていました。

(「止めるコントロール」「止まっている間をみる」この2つだけの状態です。)

本当に体験として「間」を感じられるようになったのは、


妊娠中で身体を大きく動かすことが難しかった時期です。

可能な範囲で腰痛予防のセルフケアをしてみたり経絡を流したりしていました。

そんな中でプラーナヤーマをすると「止めよう」としなくても

訪れる“間”をいつも以上に感じられたのです。

吸って、吐いて、そして止めてみる。


それだけのことなのに、心がざわざわしたり、

思いがけないほど静かになったり。

ハリを強く感じていたお腹が落ち着いたり。

(※妊娠中のクンバクは、腹圧をかけないようにだけ注意が必要です。)


とくに、吐ききった後にふっと訪れる静寂。
そこに、

言葉では説明しきれない深さを感じました。

「あ、これが“空”という感覚なのかもしれないな」
そんな風に、

静かな確信のような感覚が胸に広がったのを、今も覚えています。

呼吸の保持にはいくつかの種類があります。

  • アントラ・クンバク(吸って止める)
 吸気が満ちたあと、ほんの一瞬とどまる感覚。
 
     内観を深め、意識を内に集めやすくなる段階です。
  • バーヒャ・クンバク(吐いて止める)
 吐ききったあとに訪れる、しん…とした空間。
 
     手放しと静寂を体験できる呼吸の余白です。
  • ケーヴァラ・クンバク(自然な停止)
 意図せずに呼吸が止まっている状態。
 
     深い瞑想状態に入ったときに、自然と現れると言われています。

私自身は、まだまだケーヴァラのような境地には至っていませんが、


プラーナヤーマの練習中、

「止まっているのに、流れている」という感覚に毎回出会う。


それは、呼吸がどこまでも静かで、

やさしく連続しているような状態です。

この時間が長くなっていくのが「自然な停止」なのでしょう。

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知識として知っていたけどじっせんはしていなかった頃、

「息を止めるなんて、苦しそう」
私はそう感じていました。

初めて取り組んだ時もそう感じていました。


止めようと意識すればするほど呼吸は浅くなり、

からだも緊張してしまう。

妊娠中にクンバク呼吸をしてみた時に、

ふと私はクリパル・ヨガの内観を思い出しました。

「私はいま、呼吸を感じている? 
それともコントロールしようとしている?」

以前の私は呼吸を“支配”しようとしていました。


それでは呼吸は自由に流れず、プラーナ(気)も巡りません。

こういう時は、一度ふつうの呼吸に戻る選択をします。


その“戻る勇気”もまた、呼吸に正直である。

アーサナと同じですね。

甘えてはいないけどいじめていない「エッジの探究」なのです。

少し前のコラムで、「種(bīja)」の話を書きました。


あためた種も、すぐに行動した種も、どちらも大切。

共通していたのは「見続けること」でした。

クンバクもそれと似ていますね。
無理に深めようとしなくていい。

ただ、自分の呼吸の準備(心も肉体も)が整ったとき、

その“間”は、ふっと自然に訪れるのです。

「今ここ」にじっととどまり、


吸う・吐くの間にある小さな余白に気づき続けること。

そこからクンバクとの出会いは始まるのだと思います。



呼吸は、私たちの準備が整うのを、ちゃんと待ってくれます。

今の自分のペースを大切に。


今日の呼吸と、今日の“間”“余白”を感じていきましょう。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。