ヨガの時間、
ふと「わたしのからだは固まりではない」ということに気づく瞬間があります。
骨があって、筋肉があって、皮膚がある。
そのあいだに、わずかなズレのような感覚を受け取ることがあることも。
それらはひとつひとつ別のもののようでいて、
実際には、なめらかに、ひと続きの流れとしてつながっています。
けれど本当は、もっとやわらかく、 もっと流れている存在です。
私たちのからだの大部分は水分であり、
一つひとつの細胞も、それらを包む筋膜(ファシア)も、
絶えずみずみずしい潤いの中で揺れ動いています。
頭では「からだの多くは水だ」と知っていても、
その流れや潤いが感じられなくなり、
乾いた固まりのように思える日もあります。
皮膚の乾燥を目にして、自分は乾いていると感じていたかもしれない。
外からの刺激を受け止めようとしたり、
日々の自分の役割をきちんと果たしようとしたりする中で、
知らず知らずのうちに内側に壁をつくり、 からだ自体が硬くなることがあります。
それは何かを守ろうとする、 健気な防衛反応。
潤いを感じにくいとき、 それを無理に取り戻そうとしなくても大丈夫です。
カサついた感覚や、重さとして残っている場所を、
「今はここにこうした感覚があるのだな」と、ただ静かに見つめてみる。
流体は、せき止められると一時的にたまりのようになりますが、
消えてしまうわけではありません。
流れは、その奥で静かに生き続けています。
この「流体としてのからだ」という視点に立つとき、
太陽礼拝はまったく違う風景として見えてきます。
だからこそ、急いで形をつくろうとせずに、
ゆっくりと観察し、見守るように動いていく。
・ ・ ・
太陽礼拝は、ポーズをひとつずつ切り替えていく動きとして捉えられがちです。
けれどからだをひとつのつながった流れとして感じていくとき、
そこには明確な“区切り”はなくなっていきます。
コブラからダウンドッグへ。
その移行は形の変化というよりも、
大きな波が満ちては引いていくような、 連続したうねりとして感じられます。
そのとき、からだの背面を頭から足裏までつないでいる
浅後線(スーパーフィシャル・バック・ライン)は、
一枚の長い布が水の中でゆっくりと揺らぐように、伸びたり、縮んだりを繰り返しています。
どこか一部を強く引き伸ばすのではなく、
足裏からふくらはぎ、仙骨、背骨、そして頭頂へと、
動きは波紋のように全体へと伝わっていきます。
もし動きの途中で呼吸が浅くなったり、
顎や足先に力が入ったりする瞬間があれば、
それはからだを固体として止めようとする、小さなブレーキかもしれません。
そのブレーキに気づいたとき、
無理にほどくのではなく、ただ少し緩めてみる。
内側にある水の流れに、再び動きをゆだねていく。
形にからだを合わせるのではない。
流れの中で一瞬あらわれる「波のかたち」として、
アーサナが自然に現れてくるのを見守っていく。
皮膚の奥、骨の近く。
動いていないように感じていた場所のさらに奥で、
静かに待っていた水脈が、動きとともに再びつながっていきます。
そのとき、筋肉を“使っている”という感覚は薄れ、
重力とのやりとりだけが、やわらかく残っていきます。
・ ・ ・
ただ流れに乗り、
ただ波の中にいるように動く。
思考で動きを管理しようとする手を少しゆるめていくと、
からだはそのときにとって最も無理のない場所へと、自然に収まっていくのです。
動いているのに、内側はむしろ静かに澄んでいく。
その感覚は、流れる川の底にある、深い静けさにも似ています。
生きていると、時間は進みます。
山を登るように進むときもあれば、
川の流れに身をゆだねるように進むときもあります。
このときの太陽礼拝は、
自分で動いている感覚と、流れに乗っている感覚が同時に存在しています。
いくつかの太陽礼拝を重ねたあと、ふと動きが止まったとき。
肌をなでる初夏の風の涼しさと、
その奥に広がる、 静かに澄みきった水面のような内側に触れる。
固めることで守るのではなく、
流れることで調和していく。
今日も、ご自身の中にあるみずみずしい巡りと共にいられたことに、
静かに感謝を込めて。
そのやわらかな波の余韻が、
日常の中にも穏やかに続いていきますように。
