<フリダヤ・ムドラと「ジャイ・バグワン」>

<フリダヤ・ムドラと「ジャイ・バグワン」>

ムドラに取り組み続ける中で、私はこの「フリダヤ・ムドラ」を結ぶと、

自然と「ジャイ・バグワン」という言葉が浮かぶようになりました。

「ジャイ・バグワン」

この言葉を直訳すると「神性なるものを讃えます」。

けれど私にとっても、(そしてクリパルヨガにおいても、)

この言葉はもっと静かで、もっと日常に近い響きを持っています。

ヨガのクラスの後、自分へ、そしてともに時間を過ごした仲間へ。

または、思うようにいかない日や、心がざわつく瞬間にも——

静かに「ジャイ・バグワン」と心の中で唱えると、

呼吸がやわらかく広がっていくのを感じます。

まるで誰かが「そのままでいいよ」と、

静かにそっと背中に手を添えてくれているような——

そんなやわらかな安心感が、胸の奥から広がっていくのです。

私にとって、「フリダヤ・ムドラ」と「ジャイ・バグワン」は、

同じ内側の静けさの源につながる、近しいアプローチのように感じています。

・   ・   ・

ここで、少し「フリダヤ・ムドラ」について触れてみましょう。

“フリダヤ”はサンスクリット語で「心臓」を意味します。


胸の上に右手を、さらにその上に左手を重ねて添えるこのムドラは、

神の保護を求めるための祈りの形でありながら、

私たちの内側にある「安心」や「信頼」の感覚を思い出させてくれる形でもあります。

このムドラを結ぶと、胸部の緊張がやわらぎ、呼吸が深まっていきます。

身体的には胸郭が広がり、横隔膜が柔軟に動き、心臓周囲の血流も整う。

それにともなって、心の奥にも静かな温もりが広がります。

信頼感と支えられている感覚——

まるで、からだそのものが「祈り」になっていくような体験です。

アンジャリ・ムドラが“世界と自分をつなぐ手”だとすれば、

フリダヤ・ムドラは“その祈りを内側で受け取る手”。

胸の中心(壇中)に意識を向けると、呼吸の波が身体の奥深くまで伝わります。

からだ全体が呼吸しているような、生きている実感そのものがそこにあります。

困難な出来事や、どうにもならない痛みの中でも、

この呼吸とともにあるとき、「いのち」はちゃんと動いている——

そんな確信のようなものが胸に灯ります。

私は思うのです。


フリダヤ・ムドラとは、

「私は呼吸をしている」「生きている」「あたたかさがある」——

そのことをまるごと受けとめるためのムドラなのだと私は思うのです。


・   ・   ・

フリダヤ・ムドラは、その確信を思い出すための形。

そして「ジャイ・バグワン」は、その形の奥に流れる、いのちへの敬意の言葉。

手のひらのぬくもりを感じながら、心の中でつぶやいてみるのはどうでしょうか。

「ジャイ・バグワン。」

今日も、ありがとう!

それは特別な宗教的祈りではなく、誰もが持っている“静かな信頼”の声。

外の神さまに向けるというよりも、

自分の中のいのち、世界の中のいのち、すべてを讃える響きのようです。

様々なムドラを結ぶたび、からだの内側でその言葉がそっと広がります。

小さな静けさの中に、確かな光が宿っている。

そんな時間を、これからも大切にしていきたいと思っています。

最後までお読みくださり、ありがとうございます。

興味深く、ムドラを体験してまいりましょう。