クリパルヨガの実践と学びを繰り返す中で、
プラティヤハーラが、「あー、そういうことか」と腑に落ちたんです。
それまで正直、プラティヤハーラという言葉は、
どこか掴みきれないまま、そっとしていました。
八支則の中では、
アーサナ(坐法)とプラーナヤーマ(呼吸法)の次、瞑想の手前に置かれる段階。
でも日本語の解説や和訳に触れるほど、
「制御」「感覚を戻す」といった言葉が前に出てきて、
かえって具体像がぼやけてしまう。
何かを抑える段階なのか、感覚を消すことなのか。
実践の体験と結びつかないまま、みようとしていなかったのだと思います。
そんな中で、ふと繋がったきっかけは
クリパルヨガが大切にしてきた姿勢でした。
今、何が起きているかを見ること。
良い・悪いと判断せず、操作せず、ただそのままにしておくこと。
それは、感覚を遮断することでも、感覚に溺れることでもありません。
音は聞こえている。身体感覚も、呼吸も、思考も起きている。
ただ、それに巻き込まれず、気づきとして在る。
(クリパルヨガにおける「エッジの探求」そのもの。)
その在り方こそが、
プラティヤハーラだったのだと、ある日、腑に落ちました。
スワミ・クリパルが残してくれた
「アーサナも、瞑想も、呼吸法も、すべて同時に起きている」
という言葉も、今はまた違う響きで聴こえています。
これまで私は、この言葉を
「八支則は階段を上る方法ではない」
「分けて考えなくていい」
という教えとして受け取っていました。
八支則は、ピラミッドのように一段ずつ登っていくものではなく、
みかんを横に切った断面のように、
同じ平面にドーンと並んで在るものだ、と。
(そういうことでもある。)
けれど今は、
それらが「同時に在る」という理解の上に、
体験としてリアルに「同時に起きている」のだと感じています。
アーサナをしていても、
呼吸を感じていても、
そこに意識的である質が加われば、
すでに瞑想的で、
すでにプラティヤハーラが起きている。
それは特別な修行の話ではありません。
修行僧のように山にこもってヨガをするのではなく、仕事があり、家族がいて、
刺激や感情が行き交う現代社会の中で、日常のそばにある私たちのヨガの話です。
日常の中で、からだを感じ、呼吸を観て、反応せずに今を見守る。
その姿勢そのものが、ヨガである。
プラティヤハーラなのだと感じています。
セルフケア整体も同じです。触れて、感じて、今の状態を見守りながら、
力加減を選び続ける。操作するのではなく、意識的であり続ける。
私は8ー10年前、ひどい腰痛や腹痛、下血に悩み、
アーサナが取れる心身ではなかった時期があります。
お世辞にも健康とは言えない状態でした。
その頃は、ひたすらセルフケア整体をしていました。
無我夢中で、ただ「良くなりたい」一心だったのですが、
今振り返ると、あの時間こそが、
私にとっての「内観のヨガ」のはじまりだったのだと思います。
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スワミ・クリパルは、
「本当に大切なのは、ヨガや健康法に没頭するだけでなく、
家族や社会との調和を保ちながら実践すること」だと伝えています。
ヨガは、自分の内側だけを整えるためのものではなく、
関係性の中で、どう在るかを問い続けるもの。
その中で八支則は、ヨガスートラの中の遠い哲学ではなく、
すでに日々の実践の中で生きているものとしそこにあるのです。
プラティヤハーラは、呼吸法を完璧にマスターした人だけが辿り着く段階ではなく、
今を感じ、今を見守る。その瞬間、もうそこに在る。
「誰にも開かれたヨガである」
これは、クリパルヨガが大切にしてきた在り方です。
アーサナの完成形にこだわらず、
今の状態から実践できることを尊重する。
その姿勢を、そのままに見つめていくと、
この「プラティヤハーラ」という段階が、
内観として、すでにそこに在る状態なのだと思います。
今日も最後までお読みくださり、ありがとうございます。
