<種(bīja)②「あためた場合」と「あたためず即行動」どう違う?>

<種(bīja)②「あためた場合」と「あたためず即行動」どう違う?>

前回のアーカイブコラム書いたの「種(bīja)」の存在の話、、、

自分に当てはめてここに書いてみます。

この種を「あためた場合」と「あたためず即行動」した場合どう違うのか?

私はクリパルヨガに出会ったのは2016年です。

あー、面白いヨガだな、

アジャストが先生本位ではなくて怖くないな(腰痛があって怖い思いをしていたから)

そんな受講した時の「良いなー」「続けてみたいな」という感覚があり、

ちょこちょこと行ける範囲でWSに参加したり、

クリパルを勉強されたティーチャーを探して

クラスに参加してみたりしていました。

本格的に学びたいと心に想いながら

なかなか時間やお休みを取る勇気もなく、お金もギリギリ、、、

実際にティーチャートレーニングに参加できたのは2023年、7年後でした。

この7年間はきっと、

自分なりに今できることに向き合い「種」を「あたためていた」のだと思います。

「あたためていた」からこそ理解が深く、学びの中での発見。

なぜ自分がこの「種」に惹かれるのか。

その答えを探すようん旅を歩んでいるように感じたのです。

その学びは深い海のように、そして滝のように流れてくる、、、

そしてどれもすっと入ってくるような感覚がありました。

それは「あたためていた」間に自分自身の中の器が

準備されていたかのような体験でした。

ですが、もし「あたためず即行動」していたとしたら。

全く違う体験となったはずです。

理解が及ばないことが山ほどあったはず。

腑におちるまで時間がかかったことと想像します。

反対に、

私にとって、実際に即行動してはじめたひとつが「整体」の学びでした。

自分の状態(ひどい腰痛)をどうにかするんだからはじまり、

トリガーポイントの存在を知り、これだ!と直感で行動していました。

関節、骨の部位、筋肉、、、全くわからないところから飛び込み。

テクニックと理解、結果、体験、、

すべてが繋がり出すのに3年かかりました。

石の上にも3年とはよく言ったものですね。

ブワッとなんだが突然、理解と体験がつながる瞬間がやってきました。

私の体験から見えることは、

「あためた場合」と「あたためず即行動」どちらでも情熱』があれば

同じ成長が進む先には待っているのではないでしょうか?

ということです。

ただ忘れずにいたいのは、、、「即行動」できた際はその種がある

小さいながらも顕在化されて動き出すということです。

「あためた場合」は自分を観ること、今自分の中に何があるのか

忘れずにその「種(bīja)」の存在を愛でることをたまにしてほしいのです。

止まっているように見えても、

その「種(bīja)」は静かに確実に育まれる。

それがそこにあるから行動が変わる。

だからこその「Recording」「書く」です。

今の自分を書き出しましょう。「種」に気づく、「種」を忘れないために。

そして、1年、3年、5年、、、『願い事』の書き直しの時期かもしれません。

もし「種」を温めているのなら、

自分のペースで、自分の時間を尊重しながら、

ゆっくりと歩んでいきましょう。

私も一緒に進んでいきます。

今日も最後までお読みいただき、ありがとうございます。