<ヨガマットの外でも「エッジ」を感じる時>
生きていれば、いろんなことがありますね。
歳を重ねれば、その分、経験も体験も増えていきます。
「今日はちょっと、人と話すのがしんどいかも」
「この頼まれごと、受けたいけれど、今は難しいな」
「何でもない言葉が、なぜか胸に引っかかっている……」
そんな瞬間に出会ったとき、どうしていますか?
私はかつて、特に20代、、、
「がんばればできる」「たいしたことじゃない」
「自分が少し我慢すればいい」などと、
ぐっと飲み込んでしまうことがよくありました。
見えている感情に気づかないふりをして、
何ごともなかったようにふるまうクセが、いつの間にか身についていました。
でも、クリパルヨガに出会ってから、「エッジ」という見方を知りました。
マットの上でポーズをとっているとき、
ふと「ここが私の限界かな」「今日はこれ以上は無理かもしれない」
と感じるその境界線——それが“エッジ”。
それは、決して“あきらめ”や“弱さ”ではなく、
今の自分を正直に見つめて、尊重する、誠実な感覚。
そして気づいたのです。
この「エッジ」は、マットの上だけでなく、日常の中にもあるのだと。
たとえば——
「ほんとうはやりたくない。でも、誰かしないと進まない、、」
「このチームでこの数、、、やっぱり無理……」
「この納期、、、不可能じゃ!」「頭もお腹も痛いな、、」
昔の若い頃の私は、
こうした心の声やからだの声を、見ないふりをしていました。
若い頃の私は、うまく社会に順応しているつもりで、
実はたくさんの“日常のエッジ”を超えていたのだろうと思います。
誰かとの会話で違和感を覚えたとき。
自分の意見を押し殺してまで空気を読もうとするとき。
疲れているのに「まだやらなきゃ」と、無理をしそうになるとき。
そんな場面こそ、マットの外で出会う“エッジ”なのかもしれません。
その境界線を超えてしまったとき、
心もからだも、心地よさを失っていく、、、
それが「ストレス」という形で現れることもあります。
でも、そんな“エッジ”を感じとるには、少し勇気がいります。
なぜなら、私たちは「がんばるのが当たり前」「もっとできるはず」
という言葉に囲まれて育ち、日々の役割や責任の中で、
自分自身にもプレッシャーをかけてしまいやすいから。
けれど、ヨガの実践を通して育まれる“自己観察のまなざし”は、
そうした日常の中のエッジにも、そっと光をあててくれます。
「今、私はどう感じている?」
「これは本当に“やるべきこと”なのかな?」
「今、必要なことなのかな?」
「私の内側は、どんな声を発しているだろう?」
そんな問いかけとともに、
一歩立ち止まることができるようになります。
そして、心身の声に耳を傾けたうえで、
「やる」か「やらない」かを自分で選べたとき、
そこには、小さな“自己信頼”が芽生えます。
まるで、マットの上で見つけた安らげる場所に、
そっと腰をおろすような感覚。
もちろん、いつも完璧にできるわけではありません。
気づかないうちに無理をしてしまうこともあるし、
無理をしてでも経験を積む、人生の修行のような時間もある。
逆に、少しの違和感に過敏になりすぎることだってあります。
それでも、ヨガを通して繰り返し「今の私」に立ち返る実践をしていくと、
少しずつ「自分に誠実である」—
サティヤ(Satya)=正直であること、誠実であること—
という感覚が、日常の“ふつう”になっていくような気がするのです。
春は、出会いや変化の多い季節。
人と関わる場面も増え、環境の移ろいも大きくなります。
だからこそ、外側の変化ばかりに意識を向けるのではなく、
「自分の内側の感覚」にも、やさしく気づいていたいものです。
そして、もし「あ、ここが今のエッジかも」と感じたら、
それはとても大切なサイン。
頑張る前に、深呼吸して、リラックスして、
心とからだに「今、大丈夫?」と問いかけてみる。
その小さな時間が、自分を大切にするための土台になります。
ヨガマットの上で育まれた感性は、
日常をよりしなやかに、やさしく生きるためのヒントに満ちています。
外の世界と関わりながらも、
自分と深くつながっていること。
それが、ヨガがそっと教えてくれる、大きなギフト。
今日もまた、あなたにとっての「エッジ」と出会う一日になりますように。
生きるを養い、心ゆたかな時間となりますように。
今日も最後までお読みいただき、ありがとうございます。